教育改革はへき地から

   ~なぜ複式指導を嘆くか~

 「全国へき地教育新聞」1969年3月26日掲載

矢口 新 やぐち はじめ(当時:能力開発工学センター常務理事)

◆人の心のへき地性

 へき地教育という言葉が生まれたのは、それが一般の地域の教育に比べて大きなハンディキャップを持っていて、教育の形としては同日に論ぜられないという意識があるからであろう。へき地の教育は都市や農村の教育と比べて断絶があるという意識は極めて強い。それは具体的にへき地の生活状態をみると無理からぬことである。だがそれはわれわれの力によって克服できないものであろうか。現代は月まで征服しようという時代である。どうしてへき地を克服できないのか。多分に人の心構えの問題ではないだろうか。へき地を克服するのは人の心のおくれを克服することであるような気がする。へき地に住む人間は、その地域の持つ力でしか教育できないという原則はどこにもないはずだ。現に教科書でも教材・教員でもどんどん都会からおくりこんでいる。ラジオでもテレビでもどんどん入り込んで行く。もっと積極的に工夫すれば、相当のことができるのである。へき地に金がないなどというのはバカな話である。社会福祉政策というのもある時代なのだから。人の心の構え方をかえなければ何を考えても無駄だということをまず自覚しなければならない。

◆複式の方がよい

 へき地の教育の大きなハンディキャップの一つは、複式学級であるということは昔から言われて来た。しかしそれとは正反対の思想が最近あらわれている。それは日本のことではないのが残念であるが、多年齢学級のすすめというアメリカのNEA(全米教育協会-民間の文部省といわれている大勢力をもったアメリカの教育者の団体)のパンフレットである。多年齢の学級では、同年齢の学級では気の付かなかった教育がある。たとえば年齢の上のものが、下の年齢の者の世話をする。そこには人間が現実の社会で生活するのに必要なさまざまな徳性、知性が養われるという。人間の人格の全体性を考えると多年齢学級の方がどうもはるかに意義がありそうだというのである。これは多くの実験的研究の結果の思想であって、ただの思いつきではない。

 こうなるとへき地の複式学級も見直してよいのではないか。同年齢の大きな集団をつくって、知識をつめこむのが教育の最善の形態だと考えると、複式学級は大きなハンディキャップだが、視点を変えると、まるでちがったものになる。都会はどのように多年齢学級をつくるかいろいろ苦労しなければならぬのに、へき地は最初からそういう理想的な形になっているのである。上の年齢の者が下の者を世話し、下の者が上の者に従い、お互いに協力し、年齢の差があるところから、他人を客観的にながめて人間というものに深い理解を持つ。下の者に対する話し方を考えるというのは他人に対して、より真剣に神経を使うということをおぼえる。同年齢で大して役に立たない知識をつめこむよりはるかに意味がある集団である。

◆学習活動の多様化

 教育という言葉でわれわれにすぐ思い浮かぶのは同一年齢の学級集団で一人の教師が一斉に教育する姿である。その集団の中でなんでもかんでも片付けようとするのが現代の教育である。しかし考えてみるとこれはおかしい。たとえば音楽で楽器を奏することを考えてみるがよい。それは学級でやるよりまず第一に一人ひとりの訓練の問題である。体育でも同様である。スポーツのチームプレーにしてもまず一人ひとりがふさわしい能力をもたねばならぬ、いわゆる知識教育といわれるもの、たとえば理科とか社会でも一人ひとりが自分で自然を観察し、実験し、社会のデーターを処理する能力をもつ必要がある。そうでなければ、教師の話を聞いてもわからないであろうし、グループでディスカスすることもできない。

 というのは、学習というのは何もすべてが個別で行われなければならぬということではない。グループ活動も必要だし、教師の話を聞くこともあってよい。しかし一人ひとりが自分の責任で行動することも非常に大切である。これをすべて一人の教師のもとで、すべて学級という集団一括の教育としてやっているというのは誠にチエのない話である。どうしてそういうことが破れないか。惰性の中に落ちこんで、頭が働かなくなっているのであろう。学級という観念の呪縛から脱出せることがまず第一に必要であろう。

 しかしそういうものから脱出する必要のないのが複式学級である。ところがそれなのに逆に自らすすんで複式学級はだめだと考えるというのはすべて逆な話である。

◆能力を開発するシステムとは

 一人ひとりの能力を育てるということがお題目のようにいわれ出した。しかし学級のどんぶりの中で一切のことをまかなうというような考え方では、いくらお題目をとなえてもだめである。一人ひとりに何をやらせるか、というプログラムを考えなければだめである。シンクロファックスという教育機器が使われているが、そういうものでも使えば多少の助けにはなる。生徒一人ひとりが何かをする場をつくれるからである。そういうものをもっとおし進めればまだまだ多くのことができるはずである。教師がいつも何かをして生徒はそれを聞くというのがよい教育だという考え方を切りかえる必要があろう。

 教師がやるのではなく生徒が観察し、実験し、整理し、あるいは楽器を使い、という具合になってはじめて能力がつくのである。そうなるためには、教科書だけで教育をしようという考えを切りかえなければならぬ。生徒に何かをやらせる材料をそろえてやり、そのやり方を指示してやり、生徒がやったことについて、正しいかどうかを判断する資料を与えてやらなければならぬ。言いかえれば、生徒にふんだんに教材・教具を与えてやれということである。その教材、教具もざっくばらんにいえば、要するに生徒のおもちゃである。いじくり回して遊べるものである。

 このことをむつかしく言うと、「教育の場は生徒の活動する場である」ということである。そういう場をつくるのが教師の役割である。教師の役割は教室で立ち上がって演説することではない。演説するのはむしろ生徒なのである。これまでのように教師がしゃべって「わかったか、おぼえておけ」というのは教育ではないと認識すべきである。これはなかなかむつかしい転換かも知れないが、そうしなければ、本当に生徒を育てることはできない。これまでの教師は、昔の手工業の職人である。もっと科学と技術を使って、新しいシステムの教育を生み出す努力をすべきである。