おとなしい兄ときかん気の弟(あるいはその逆)。 上の子は食べ物の好き嫌いがあるが、下の子にはない(あるいはその逆)。「兄弟なのに」どうしてこう性格が違うのか。よく聞く話であるが、これも「兄弟なのに」ではなく、「兄弟だから」と考えるべきだろう。
兄弟だということは、一人ずつ育つのとは絶対的に異なる条件がある。兄には年下の弟がおり、弟には年上の兄がいるということである。兄は、弟が生まれるまでは一人で育てられる。親に自分ひとりが世話されるという経験をしているのである。そこに弟が生まれる。親が、自分以外のものの世話をし、愛情をかける。自分と親の関係の中に入り込んできた新しいものとしての「弟」の存在を意識して育つ。また、新しい存在である「弟」に対して働きかけたり、「弟」から自分への働きかけに対応していく中で育っていく。
一方、弟の方は、始めから年上の兄がいる状況で、兄の行動を見て育つ。兄が自分に対する行動(世話であったり、攻撃であったり)を受けて育っていくのである。こうした経験がそれぞれの脳を育てていくのである。
親の接し方も一人目の子と、二人目の子は違う。親として始めての経験であるひとり目の子育て、その経験を踏まえての二人目の子育て。病気になったとき、けがをしたとき、隣の子とケンカをしたとき、始めてのときと、経験を踏んできたときとでは対応が違うのである。
こう考えると、違うのが当たり前で、同じになるほうが不思議というものである。
「何回もやっているのに」「初めてなのに」「一番若いのに」「女の子(あるいは男の子)なのに」・・・・・・・・・というように、いままで「○○なのに」と考えてきたことは、実は「○○だから」であるということはかなりあるのではないか。逆に、「××だから」は実は「××なのに」である、ということもあるだろう。
人の行動をみるとき、先入観で判断せずに、脳にどのような経験をさせてきたかという視点で、その人の行動を成立させてきた背景をとらえてみることが大切だということだ。そうすると、その人を理解するための視界が開けてくる。