矢口教育学では、知識も外界の現象を脳がことばによって分析し、総合し、再構成したものとなる。
「われわれは、知識をもっているとか、知っているとかいうが、それはある対象に対して、それを測定し、分析、総合して表現することができるという脳系の働きがあるということなのである。自分はそれを知っているという表現は、自分がそのことができるということの自覚なのである。その自覚がはたして本当に知識をもっていることを表しているのか、ただ錯覚であるのかは、その脳系の働きの内実を表現してもらう以外にないのである。すなわちある対象を分析し、総合し、表現してもらうことが、ほんとうに知ってるかどうかを実証する道である。本人が自分は知っているなどというだけでは信用できないということである。」(1969潮出版社「講座日本の将来6教育改革の課題」共著Ⅶ教育工学p232)
10.知っているとは…
9.わかるとは…
矢口は人間の身体的行動と思考や感情を、脳神経系の働きとして一元的に捉えていた。矢口教育学の根底にある考え方がそこから出てくる。
(略)…わかるとかわからないというのは、自分の状態の自覚的表現なのであって、本当は、わかったと思い、わからないと思っていることなのである。その根底をなすものは脳系のはたらきそのものなのである。
このことは教育の場合には重要な意味をもつ。わかったとかわからないとかは自分が思っていることである。自分が自分の脳系の状態を見た表現であって、大切なことは、その見られている脳系が本当に働いているかどうかである。つまり脳系の働きそのものをつくることが教育では大切なのである。わかるというのは、脳系があることができる、人の話に追随してゆく脳系があるというように自分では自覚したという表現にすぎないのであって、自分が思っていることが事実そうであるかどうかはわからない。教育の目的はわからせる、つまりわかったと思わせることなのでなく、その自覚の起こる根源の脳系の働く状態をつくることなのである。(潮出版社「講座日本の将来6教育改革の課題」1969共著Ⅶ教育工学p232)
7.学習とは…
「学習というのは、真実を探求し、その真実に基づいて真実の行動のあり方をものにするという自主的学習であるべきである。このことはいかなる時代でも忘れてはならないことである。
その学習の行動は、学習者が、真実探究の課題を持ち、それへの仮説を立て、それに基づいて探究をし、その結果を整理し、それによって自己の行動のあり方を確立していくことである。このような行動は断片的なテスト問題に答えるというような形で進むわけではない。むしろ、全体的な課題をとらえ、それを分析し、整理し、一つの結論を出し、また次の問題に進むという形で、きりもみ状の姿で根本に迫っていくところに成り立つものである。それは全体と部分との関係を何回もラウンドしながら進むのであろう。」 (ADE研究会アドバンスサロン18号1985「いまなぜリテラシーか」より)
4.学習とは…主体的な研究
「私は学習というのは、基本的に自己自身を啓発していくことだと思っている。つまり生活の中身に対する主体的な研究なのである。教育するというのは、本質的にそういう場を生活の場の中に準備して提供することなのである。つまり生活即学習という事態を実現することである。」 (1981 矢口新選集6 「生きがいに挑戦する人間の育成」 p94)