コンサルティング/技術指導・セミナー

能力開発、教育-なんでもQ&A

我々が、コンサルティングや研修で企業、学校で人を育てることに関わっている方々から、能力開発、教育、訓練などのことで質問を受けたり、問題となるようなことについて、ほんの少し「QアンドA」にしてみました。ご関心のあるところをご覧下さい。
この他の疑問、質問、意見などありましたら、こちらまでお寄せください。
こうした疑問を話題に、能力開発工学を体験しながら、ディスカッションするセミナーがあります。ご関心のある方は、こちらまでお問い合わせ下さい。

(1)話で十分? 知識で十分?
Q1
 説明すればわかるし、わざわざやらせなくともいいのではないか? 講義は効率がいい? できなくても、わかるだけでも教育ではないか?
Q2
 座学は全く不要か? 本を読んで身につける知識は、意味がないのか?
(2)知識は必要?
Q3
 知識がないと行動ができないのではないか? 講義、実習という流れは絶対に必要だ。電気の理論を知らなければ、テスターが使えない?
Q4
 話を聞いてやれそうだと思っても、いざやろうとするとできない。ひとつひとつ説明してもらわないと心配?
(3)頭が悪い人はだめ?
Q5
 いくらわかりやすく説明しても、わかってくれない。覚えが悪い人がいて、これは教えてもだめ。生まれつき頭が悪い?
Q6
 自分自身で一所懸命講義を聞いても覚えられない。物忘れがはげしい?
(4)寝る奴はだめ?やる気、意欲を出させるには?
Q7
 講義をしていると生徒、研修生は寝てしまう。特に午後の授業、研修は寝る?
Q8
 学習意欲をもたせようとしても、むずかしい?
Q9
 研修、授業でどのように「導入」を考えたらよいか?
(5)やらせればよい?
Q10
  細かいことを言わずに、やってみせてやらせればいいんじゃないか?
Q11
  覚えさせるのではなく、行動させればいいということならば、なんでも体験させればよいのか?
(6)グループ学習?
Q12
  勉強は一人でやるものではないのですか?
Q13
  グループを作っても、それぞれが勝手にやったり、やらなかったりで、グループはあまり意味がないように思うが?
(7)学習の指導?
Q14
  能力開発工学にのっとると、指導者の役割はどうなるのですか?
Q15
  指導というのは、教えることではないのですか?
(8)学習者の評価は? 教育の評価は?
Q16
  知識のテストは無意味か?評価はどうするのか? どう考えればよいのか?
Q17
  実施した教育が良かったどうかは、どうみればいいのですか?
(9)その他
Q18
  脳は白紙で生まれてくるというと、生まれつきということはないのか?
Q19
  スポーツの名選手なら名コーチになれると考えていいか? そのことができれば、教えることはできるのではないか?
Q20
  人に教えてもらわなくても、自分でできる人もいる? これはどう考えればよいか?

Q1
 説明すればわかるし、わざわざやらせなくともいいのではないか? 講義は効率がいい? できなくても、わかるだけでも教育ではないか?
A1
 一般に説明によって話すこと、書くことは、知識と言ってよいでしょう。ものの成り立ちや、状況、やり方を言葉や文字、図にして、伝えようというものです。言葉、文字、図などは説明する人がそれまでに経験した事柄を、音や字、絵にして表現したものです。その表現したものを受け取っても、経験が伝わったわけでは無いのです。このことを知っておく必要があります。言葉や文字、図などの目から、耳からの刺激によって受け取る人が過去に経験したことは、よみがえりますが、経験の無いことを言葉で聞いても刺激にならないのです。例えば、教師が子どもに「高い山の上は寒い」という言葉を話をしたとすると、この言葉は簡単ですぐに伝わると考えられますね。言葉として伝わったかどうかは、テストをして「言わせる」「書かせる」ことをすればわかります。
ところが、説明した教師が行った山は高山で、夏でも寒いということを経験していたとしても、その説明を聞いた子供は数百メートルの山しか昇ったことが無ければ、その言葉はそのまま経験を思い起こすことにはならないのです。子どもは、「先生の言うことは、おかしい。自分はそうは思わない」と感じることでしょう。子どもは、寒いという経験があれば、それを結びつけようとするが、本質的に高山の経験をしたわけではないのです。これで果たして知識が伝わったと言えるでしょうか? 知識が身に付いたというのは、話をを聞いた人?が、高山に行くときに、自分から防寒着をもって行けるようになるか?どうかということが問題になるでしょう。「説明では行動が変わるところは必要としていない」という考えの人が多いのですが、知識を伝達したところでおしまいなのが、これまでの教育と言ってもいいでしょう。できるか、できないかは本人の問題ということでしょうか。このことと、できるようにするのが教育ということとは、目標が異なると考えておくべきでしょう。「説明を聞いて、いつか思い出して出来ればいいのであって、それが教育だ」という考えもありますが、脳にとって聴覚だけ、視覚だけの記憶では記憶されにくく、しばらくすると忘れてしまうことが多いようです。とすると、「説明、講義は短い時間で、多量の人間に伝達ができるので、効率がよい」と言われるが、何をもって教育の目的が達したことになるのでしょうか? 「逆に効果はうすい?」とも言えないでしょうか? もちろん、説明、講義を聞いて、すぐにやってみることになれば効果がある?場合も多いと思います。

説明、講義に掛けたエネルギーは無駄になっていないかどうか、検証してみる必要がありそうですね。

Q2
 座学は全く不要か? 本を読んで身につける知識は、意味がないのか?
A2
 座学と言っても、座っているかどうかが、問題ではありません。学習には、脳が活動しているかが問題となります。 座っていても、話し合いをしたり、自分のやった活動を自覚するような活動がであれば、脳が活動していることになります。本を読んでいるだけでは、新しい部分の脳が働くことになりません。本を読んだことを材料に、ディスカッションをし、話し合い、思いついたことを書いたり、発表したりすることなどによって、新しいことをすると獲得することが必要です。いろいろ経験したあと、それに関する本を読むも経験が言葉で整理されます。文字、言葉で経験がよみがえるのです。
本質的に身につけるべきものは、知識ややり方でなく、調べる力、探求する力であると言えるでしょう。これはどこに目をつけるか、手を出すか、やってみるかの脳の行動であり、本に書かれた言葉、文字では無いはずです。

Q3
 知識がないと行動ができないのではないか? 講義・実習という流れは絶対に必要だ。電気の理論を知らなければ、テスターが使えない?
A3
 知識は、先人が経験したことを文字、言葉にしたものと言えます。例えば「電気は流れる」という電流の働きは、電気に関していろいろ実験した人(たち)が、経験した現象を流れていると表現するのがもっともよいと思った結果である。学習者がその経験がないところで、「電気は流れる」という言葉を聞いても、別な現象を思い出すに過ぎず、新たな概念をつかんだわけではないと考えられます。学習者にとって、同じ現象を経験するほどはなくとも、それに近い経験をすることによって、知識が自分のものになるのです。テスターが使えるようになるのは、理論を知っているからではなく電気の性質をつかむ経験をすることによって、本当にできるようになるのです。どのような経験をする必要があるかが問題で、初めからに理論を知らずとも経験はできるはずです。これまでの経験でわかることから、やってみて考えて、またやってみるようにしていくこと、これが一番必要な事です。

「電気が流れる」ということを、言葉で知っている人は多いですが、それは言葉だけで知っているだけです。実際には、電気の流れは川の流れのようなものではなく、また目には見えないものですから、どうしてもそう考えざるを得ないと実感する経験をする必要があります。

電気がわからない、苦手であるという人は多いのですが、これは知識を与えているだけの教育が多いせいであると思わます。

Q4
 話を聞いてやれそうだと思っても、いざやろうとするとできない。ひとつひとつ説明してもらわないと心配。
A4
 話を聞いてやれそうだと思っても、いざやってみると出来ないということは、だれでも経験することです。またやるときには、ひとつひとつ説明してもらわないと心配で、できないと言う人も多いでしょう。話を聞いてわかったような気になるのは、聞いた言葉によって自分にイメージが作られるためです。しかし、いざやってみようとすると、そのイメージとは異なる目の前の現実に、どのようにすればいいか分からなくなってしまうという場合が多いのですが、これは当たり前で、心配することではありません。具体的にやってみるために一つ一つ、どうすればよいか説明がほしいということも理解できます。いつも誰かについて一つ一つ聞いている習慣がついている人は、そう感じるのです。

これらのような場合も、あまり心配しないでやってみる習慣を付けるのがいいでしょう。
どうしていいかまるで手が出ないと思っても、なんにもわからないということも少ないはずです。また、落ち着いて目の前にあるものを見てみる、考えてみると少しは分かることもあるはずです。すこしでも分かれば、少しだけやってみて、みてみてわからないことを聞くというようにしてみる。わかることとわからないことを分けてみることができれば、よいのです。少しでもやってみることがあれば、やってみているうちに少しずつ分かることがでてくるようになります。

そしてこうしたことを続けていくうちに、また同じような場面に出会ったときに人に聞かないでもできるようになってくることは、間違いありません。

心配しないで少しでも見当がつけば、やってみるのがよいのです。

Q5
 いくらわかりやすく説明しても、わかってくれない。覚えが悪い人がいて、これは教えてもだめ。生まれつき頭が悪い?
A5
 わかりやすく説明するということは、どういう風に説明することでしょうか?難しい言葉を使わないで? 具体的なたとえ話をたくさん入れてみる?といったようなことでしょか? 確かに聞く人によって「わかりやすい言葉」というのは、それまでに経験のあることで使う言葉であれば、それがキッカケで浮かぶイメージがあるので、わかったような気になります。たとえ話もその人の経験に当てはまる例であれば、イメージが湧くのです。しかし、新しいことを身につけたわけではないのです。
例えば「アインシュタインの相対性理論」は、どんなにやさしく書いてある本でも、それを読んだほとんどの人には、「変わったことを考える人がいるものだと」いうことしか、残らないということです。「時間が縮む」などという概念は、それを理解するだけの基礎的な経験(実験)をしていないとつかんだとは言えないでしょう。どんなにわかりやすく説明しても、聞く人に経験のないことはわかってくれないのが当たり前と考えて置くべきでしょう。経験をしていても、すぐイメージが湧かない人も多いですし、個人差は多いものです。

「生まれつき頭が悪い」などということは、絶対にないといえます。

Q6
 自分自身で一生懸命講義を聞いても覚えられない。物忘れがはげしい?
A6
 講義を聞いても忘れてしまうというのは、なにも心配することではありません。当たり前です。話は15分も集中して聞いていられればいい方です。 もちろん、年齢にもよりますが、単純な記憶力も差があります。単純な記憶力をのばす方法もいろいろ研究されています。書くことも脳を働かせることになります。ですから講義を聞いているだけでなく、メモをとると忘れなくなるとも言えます。もちろん、書くために頭を使うので、聞くことがおろそかになる場合もあります。また書いたものがあとで分かるかはべつな問題です。
しかし、基本的に講義を聞いていて、ほとんど頭に入ってこないような場合は、話されている内容について、あまりに自分が経験が無いことが多いときばあります。初めの方は少しは分かっても、話がすすむと分からなくたってくるのは、経験の無い場合です。自分の脳が反応していないというわけですから、脳をもっと働かせるように、刺激を増やすことが必要です。話されている事について具体的材料を見る。触る。使ってみるなど、してみないと脳は活動しないものです。

Q7
 講義をしていると生徒、研修生は寝てしまう。特に午後の授業、研修は寝る?
A7
 話を聞いていて眠くなるのは当たり前と考えておくべきでしょう。特に午後は、昼食に食べたものを消化するために胃腸に血液が行くので、脳から血液がなくなる?のです。ですから、脳は働かないので、眠くなるのは当たり前です。
脳は刺激がなくなると働かなくなるのです。話を聞いている人の脳は、言葉による刺激だけですから、眠くなるわけです。黒板に書いても、ビデオを見せても、内容が興味を持てればいいが、聞く人の神経細胞は反応していないのです。脳を働かせるには、刺激を多くするしかないのです。 おもしろい話をする、大きな声を出すなど、刺激の与え方はいろいろあるでしょうが、話の内容と違ったことをして意味はあるでしょうか?また、話の中で指名されていやな思いをしたような時は、忘れないものです。強い刺激があると忘れないものです。いやなことはよく覚えているものですね。
要するに講義はよほどその人の興味を持つもので、脳に刺激が起きるような活動(見る、話す、触るなど)を取り入れることがよいかもしれませんが、苦労の割には、報われないかもしれません。特に、昼食後は講義で眠くならないようにするのは、至難のワザと考えるべきでしょう。体をつかうことやもしくは学習者にとって、非常に興味をひくこと、話合い、活動を行うことにでもしないと、時間の無駄でしょう。

Q8
 学習意欲をもたせようとしても、むずかしい。
A8
 「やる気をだせ」と言われて、出るものではありません。「意欲」、「やる気」は、脳の活動としてみると「ある刺激に反応したものが広がっていくこと」です。過去の経験によって身につけたものが、ある刺激によってよみがえり、さらに見たり、聞いたり、触ったり、行動しているうちに広がってくる状態といってもよいでしょう。学習する人にとって、疑問になっていること、気になること、おもしろそうだと感じることなどが、でてくることです。これは意識をしていない場合も多いのですが、そうした感じを受けるようにならないと「意欲」「やる気」はでてきません。まして、出せと言われてでるなら、簡単です。具体的実物を見せる、触らせる、使わせる、話し合わせるなど、いろいろな刺激を工夫することがあるはずです。また、こうした「意欲」「やる気」は、個人によって異なるものと考えておくべきでしょう。ですから、学習者個人個人でどういう活動をすると「その気になるか」、どんな行動をする環境を作って上げるかが重要になります。その環境は個人個人の経験で異なるわけです。課題が学習者にとって、興味の持てるものが重要あり、単に教育をする立場の都合で、学習意欲を同じようにもたせようというのは、無理な話です。

何度も言うように「言葉でやる気を出せというのは、全く意味がない」のです。教育を担当する者がよく「意欲がない者はだめだ」という言葉を口にするが、そう言う前に学習者にどんな環境を作って上げたら興味が湧くかを少しでも考えなさいと言いたいのです。強制的にやらせるなどというのは、拷問に近いものです。

Q9
 研修、授業でどのように「導入」を考えたらよいか?
A9
 多くの研修、授業の初めに「導入」という段階を設けていて、「なぜ、この学習をするか」を位置づけることを行っています。ところが、これが多くの場合、話を一方的にするという言葉によるもので、ほとんど学習者に意欲、やる気を起こさせるものになっていないようなことが多いようです。特に学校教育などでは、教科書にあるから、指導要領にあるからといった理由で行われる場合が多く、学習者の心理状態、興味のありどころなどは、考慮されていないことを見受けます。現実は、そんなことを考慮していては授業が進まないという理由があるのでしょう。45分、50分の授業に内容を納めることは、大変なことですから。また、いろいろ配慮されていても、クラス全員がそうした意欲、やる気を起こしているようなことは、まず無いと言ってもよいでしょう。意欲、やる気は、学習する人にとって、疑問になっていること、気になること、おもしろそうだと感じることなどが、でてくることです。これは意識をしていない場合も多いのですが、そうした感じを受けるようにならないと「意欲」「やる気」はでてきません。まして、出せと言われてでるなら、簡単です。具体的実物を見せる、触らせる、使わせる、話し合わせるなど、いろいろな刺激を工夫することがあるはずです。

そうしているうちに過去の経験によって身につけたものが、刺激によってよみがえり、さらに見たり、聞いたり、触ったり、行動しているうちに広がってくるでしょう。

Q10
  細かいことを言わずに、やってみせてやらせればいいんじゃないか?
A10
  「やってみせてやらせてみればいい」ということは、基本的にはそのように考えてもよいと思います。説明をいろいろするより、具体的な材料ややってみることが目の前にある場合には、それでよいでしょう。しかし、やっていくことを通じて、つかんでほしいこと、できるようになってほしいことがあるので、その目標に無駄なく学習してもらう必要があり、ただやっていればそこへいくことにはならないと考えられます。また、学習者がどういう気持ちでいるか、どのような力があるか(経験をしてきているか)を見ていかないと、やらせてもできないでしょう。学習者は個人個人がそれぞれ違う人間で違う経験をもっているわけですから、その人毎に考えないといけないわけです。中には、やってみせても、よくわからないという人もいるでしょう。どこを見ればいいかの目を持たない学習者に何度やって見せても時間の無駄な時もあるのです。

どのように見せるか、どの様な経験をさせるか、その経験を通じてどのような感覚をつかませるかという学習のプログラムが必要と言えます。

Q11
  覚えさせるのではなく、行動させればいいということならば、なんでも体験させればよいのか?
A11
  行動させること、体験させることが重要なことは間違いありませんが、ひたすら行動させる、体験させればいいと言うものではありません。自分から疑問をもって調べ、やってみて、また考える、といった「自覚的な行動」、「自覚して行う体験」が必要です。「脳に神経細胞のつながりができること」でなくてはいけません。人に言われてやるだけでは、耳からの刺激で体を動かすだけで、それを続けていると「言われないとやらない脳のつながりができる」ことになってしまいます。考えさせないで、ただやらせるのはロボットにやらせるようなものです。。いやになるだけで、何も身に付かないことになります。ですから行動する、体験するというのも、自分で目標をもって、五感を働かせて、やってみる。うまくいった場合も、失敗した場合もどうしてそうなったか考えて、人に話してみたり相談したり、そしてまたやってみるようにするのがよいのです。指導する人は、そういうことができる場を作ってあげることが必要です。

さらに、行動する、体験することを積み上げていくときに、目標にどのように近づくかの筋道が必要です。どんなことを、どんな段階でやっていけばよいか、「学習のプログラム」があるとそれを頼りに、やっていくことができます。もちろん、そのプログラムは、紙に書かれたものだけでなく、映像やアドバイスであることもあるでしょうし、自分で作り出せる人もあるでしょう。要するに、行動、体験をするときにただでたらめにやってみるのではなく、筋道をもってやっていくことが必要です。

Q12
  勉強は一人でやるものではないんですか?
A12
  一般に勉強は「一人で、教科書をみて、ノートに書いて、覚える」というスタイルで行われています。これは学校でも、企業の研修でも同じです。さらに、実験や実習のような時は、グループで行うことがあります。またディスカッションや調べて発表するようなときもグループでやる場合が多いですね。勉強は、知識を覚えることが中心ですから、どうしても一人でやることになるりますね。しかし、教材や機材が少ないときはグループでやる?ことになったり、話し合いなどでは、いろいろな意見がでるので?一緒にやることになるのでしょうか?覚えたり考えたりするのは自分でやらなくてはいけませんが、一人で勉強するのはあまりおもしろいとは言えませんね。自分で考えたことを人に説明すると、考えたことが分からなくなったり、逆に自分の頭が整理がされたりすることがありますね。

そしてグループで学習すると楽しいことも多いですが、遊んでしまったり誰か一人がどんどんやってしまったり、やりたくてもやれないことがありますね。自分は何をしたらよいか、何を言ったらよいかわからいようなこともあり、なかなかうまく学習することは難しいですね。

個人の学習とグループの学習を一緒にはできないでしょうか? 個人の学習をしながらグループで楽しくできるようにはならないものでしょうか。

脳を働かせるというのも一人一人の経験が必要ですから、基本的に学習するのは個人となりますが、かならずしも一緒にいても個人で学習ができないことはないのです。一つのことを一緒にやっていくことにより、他人のやっていることを見ること、それについて考えをのべ合う事、共同することなどで脳が一層働くことになります。よって個人の学習と同時にグループでの学習を行うことができると、個人で学習するより、2~3倍?の幅広い学習ができることになるでしょう。

ひとりひとりの脳が働くように各自手を出して、考えてやってみることは絶対に必要です。その上で、他のメンバーとの相互交換、意見交換、共同があるとさらによいということです。

個人の学習とグループの学習を一緒にするというのは、放って置いても自然にできるようなものではありません。少し練習がいるでしょう。個人、個人が自分の学習をしながら、必要に応じて意見交換、共同などをするには、指導が必要です。しかも、グループで学習するためには学習の目標がはっきりしていること(プロジェクト)や、学習の筋道があること(学習プログラム)などが重要になるでしょう。

Q13
  グループを作っても、それぞれが勝手にやったり、やらなかったりで、グループはあまり意味がないように思うが?
A13
  確かに、多くの教育の中で行われている「グループ学習」は、グループとは名ばかりで一人一人が勝手に行動したり、他のメンバーの様子は見ないし、意見交換もしない、共同もしないと、形の上のグループがあるようです。学校の中でのグループ学習でもよく見られますし、また企業での教育の場面でもそうしたことが見られます。さらに企業での教育の場では、それ以外に平常の人間関係やコミュニケーションがうまくとれないような人も見受けられ、なかなかグループ学習がうまくできないこともあるようです。グループ学習は、個人の学習が行われることと、グループでの学習が行われることの2つの学習が行われることの両面がうまく行く必要があるので、なかなか大変なことです。個人、グループそれぞれの学習に関して、学習者が身につけるべき学習の仕方があります。個人としては、やってみて考える、そしてまたやってみる、調べてみるといった学習の仕方が出来る必要がありますし、グループとしては、他のメンバーの様子を見ていて、自分の感じたこと、意見を言ったり、共同したりすることができるようになる必要があります。

このような個人の学習とグループの学習が成り立つには、自主的な学習ができるための「プログラム」と「グループ学習の指導」が不可欠です。プログラムで自主的に学習をする中で、グループでの学習ができるように、インストラクターが指導することができればよいのです。

グループ学習の指導は、なかなか難しいと言えます。グループのメンバーそれぞれの個人としての学習の状態と、それぞれのグループ学習に対する状態を読みとり、適切なアドバイスをすることが要求されます。

例えば、一人の学習者が苦労しているときに他のメンバーがアドバイスをするのも、結果を与えるようなアドバイスでなくヒントを与えるようなことができるように、その方法をインストラクターが手助けしてあげるようなことが必要です。

グループで学習ができるようになると、苦労も課題を突破した時の喜びも一緒に味わえて一人の時の数倍の感激が感じられるようになります。そうしたグループで活動する経験は、単なる学習の部分を越えてどんな生活の中でも必要なことではないでしょうか。

Q14
  能力開発工学にのっとると、指導者の役割はどうなるのですか?
A14
  これまで指導者の役割は、一斉授業での教授を行って、知識、技能を伝達することが主たる仕事でした。それを能力開発工学にのっとり、個人個人の力を伸ばすようにするためには、
◆自主的な学習ができるような事前の学習準備(プロジェクト、導入、プログラム、教材、グループづくり)をしておいて、
◆学習者一人一人の行動(脳の働き)をよく観察し、その行動、心理を分析しながら、どのように回路をつくる場を考え、個人、グループに対する環境づくり、指示をすること
になります。 要するに、授業・研修を自主的にできるように事前に準備をして、授業・研修の時は、一人一人、そしてグループの指導をするということと考えればよいでしょう。事前準備をどんなにしていても、学習者は様々ですし、学習者は予測したような行動をとるとは限りませんので、その場その場で学習者、グループの行動に合わせて臨機応変なアドバイス、サポートをすることになるわけです。それによって、学習者一人一人をのばすことができるようになるのです。簡単に言えば、一斉授業での教授に掛けるエネルギーを、自主的学習ができるような学習の場をつくり、そこで個別に学習をサポートすることにより、自分で考え、自分で行動する力が育てられるということになります。

Q15
  指導というのは教えるのではないのですか?
A15
  「教える」という言葉は、これまで「一斉授業で講義をする」という場面に使われる場合が多かったと言えます。講義によって「知識を与える」ということを「教える」と言っていたわけです。また、「指導」という言葉も、これまで学校の中では「教科指導」「生徒指導」などというように使われ、教師が主導で知識や生活の仕方を与えるという場面で使われてきましたので、やはり教育の場での主役が教師(指導者)で、教育を受ける生徒(学習者)は、脇役という関係で使われてきています。能力開発工学では、学習者を主役とする学習の場を作りますから、指導者は学習者を見ていて、アドバイスをするという、あくまで「手助け」「一緒に相談にのる」「協力をする」といったのが仕事になります。その意味から「指導」そして「教える」という言葉も意味が違うと考えられますね。

Q16
  評価はどうするのか? どう考えればよいのか? 知識のテストは無意味か?
A16
  現在の「評価」というと、学習者が目標に達したどうかを指導者がテストをしてチェックするというのが、一般的です。最近、学校教育では、その評価を他人と比較する「相対評価」でなく、その個人の変化をみるための「絶対評価」を行うようになってきました。本来、評価はあることができるようにしてなってもらうために、行うのであって評価をして終わりでは無いはずです。また現在の評価は、単なるペーパーテストでどれだけ知識を記憶したかをチェックしているだけの場合が多く、学習にとってマイナス面が多くなっているのが現実です。

自主的な学習、行動的な学習にすると、自分で学習の目標をつかんで、その目標に少しずつ近づくように、やってみて、考えていくようになります。学習者自身が自分で自分の力を確認して次のステップへいくようになっていれば、自分自身で評価をしていくことになり、あとで評価のためのテストなどする必要がありません。

知識の伝達が目的であると、どれだけ伝達できたか、暗記できたかはペーパーテストをしないとつかめないが、行動が目標でその行動を段階的に作っていくのであれば、その時点その時点で評価をしていることになり、学習者本人がもっともよくわかるものとなるということです。

生徒の評価、学習者の評価は自分で評価できるように学習の中に組み込むとして、あまり行われないのが「教育の評価」、「指導の評価」です。学習者が目標にたどり着けないのは、学習者の責任ではなく教育を作った側の責任であることが、問題にされません。

学習者の評価をするより、教育によって学習者が目標までたどり着いたかと調べる「教育の効果測定」、そして行った教育が適切であったかを調る「教育の評価」を行うことが教育を計画、実施した側の責任であろうと考えます。

Q17
  実施した教育がよかったかどうかは、どのようにみるのですか。
A17
  企業や学校で実施している教育が、適切であるかどうかを調べる一般的なものとして、次のような方法を行うことが必要であると思われます。企業であれば、目標となる仕事の現場の観察、学校であれば家庭の生活の様子、そして教育の対象者、関係者へのヒヤリング、資料の調査などが必要となります。(1)企業、学校で実施している教育の実態の調査分析
・どんな計画を作って教育をすすめているか
・どんなねらいで教育を行っているか(具体性)
・どのような効果を期待しているか
・どんな教材(教科書、副読本、実物、VTR、その他)を使っているか
・どんなやり方で実施しているか(座学、実習、グループワークなど)
・学習者(被教育者)の様子はどうか
・目標に達したかをどのように測定しているか(効果測定)
・教育の評価(目標に対する実施結果の分析)をどうしているか
など
(2)改善すべき問題点に関わる教育の目標値および教育対象者のレディネスを調査分析
(できるだけ具体的に、特定できない場合でも絞り込む)
・どのような具体的な行動ができるようになってほしいか
・どんな問題に対処できる必要があるか
・教育対象者はどのような能力を身につけているか(なにが不足か)
・どのような場で、どのような仕事、生活をしているか
・どのような意識を持って仕事、生活をしているか
・仕事での上司、部下もしくは家庭の親はどのように見ているか
・教育を受けた後、身につけた力を活かす場があるか
など

Q18
  脳は白紙で生まれてくるというと、生まれつきということはないのか?
A18
  白紙というのは、人間の脳は生まれてきたとき(正確には胎内で脳ができはじめた時)には、神経細胞のつながりがなく、生後の活動によって神経細胞のつながりが出来て、いろいろなことができるようになってくるという意味ですが、それでは遺伝的な要素は全くないのかといえば、そうでもなく体の大きさや形、体質などはじめ身体的なものがあり、遺伝子の働きもまだわからないことが多いのです。しかし、ピアノがうまくひけるというようなことが、遺伝するわけではありません。指が人より少し長くて、よく動いたというような身体的なことに、親がピアノをひいていて小さい時からピアノに慣れていたとか、ということが重なっているような場合のようです。スポーツの場合などは骨格、体型など身体的要素が関係してりる場合もあるかもしれません。今ここで考えているような生活能力、行動能力は、体が大きい、小さいといった遺伝的な身体要素が直接関係するようなことだけではない、複合的な行動と言えますので、そうした行動は生まれてから獲得すると言って差し支えないと考えられます。

少なくとも教育を計画し、実施する者は、「学習者の生まれつき」を理由に、自分の努力をあきらめることはいけないのではないでしょうか。学習者の責任にする教育者は、少なくはないように思います。

脳の発達を調べてみると、生まれつきではないが、3才ぐらいまでのすべての行動、活動が大変重要であるとされています。赤ん坊が刻々と行う行動、活動によって、脳が作られるためこの期間の経験が重要であると言えるようです。もちろん、3才以後に脳が発達しないわけではなく、3才までの変化が大変大きなものであるということです。

Q19
  そのことができれば、教えることはできるのではないか?名選手なら名コーチになれると考えていいか?
A19
  一般的に技術や技能、スポーツなどの指導の場合、多く見られる例ですが、指導者は「自分ができる、と他人に教えられる」と考えていることが多いようです。また、仕事や家庭での子育てにも見られることが多いようです。そしてその教え方は、まず説明をして、やってみせて、そしてやらせる。できないところを注意する。それでもできないと怒鳴る、といったようなやり方のようですね。こうしたことで一番の問題は、指導される者(学習者)が物事(技術や技能など)をどのように身につけるかということを考えず(研究せず)に、自分の経験したことだけを元に指導しようとすることです。しかも、自分ができるようになったプロセスを忘れて、結果を押しつけようとする。今の自分の意識にあることだけを、言葉にして言っているだけの場合が多いようです。

できるようになってしまうと意識もせずにやっていることでも、自分ができなかった時は、苦労して練習したはずで、それを忘れてしまっているのでは指導はできません。まず自分ができるようになったプロセスを分析することです。どのような経験をしたかを自覚していなくてはいけませんね。自分で考えて、やってみて、どのような失敗をして、どういう工夫をしてできるようになったかを調べ上げられるかどうかの能力が必要ということになります。そして、教える相手に合わせて、自分で考える場、経験する場を作ってあげることが指導者の役割と言えます。

これは、指導するとはどういうことか、人間はどのように育つかということがまるで考えられていないと言ってもよいでしょう。スポーツの世界などでも多く見られるように思います。特に日本のスポーツ界は経験主義で、そのスポーツをやった人間、うまくできた人間でないと、コーチ、指導者になれない風潮があるように思います。

Q20
  人に教えてもらわなくても、自分で身につけることができる人もいる? これはどう考えればよいか?
A20
  多くの人は、経験をするに従い(大人になるに従い)、自分なりの勉強の仕方、身に付け方を備えるようになるものです。新しいことに対しては、どのようにすればよいか、少なからずもっているものです。その点でかなり難しいことでなければ、大体のことは自分で身につけてしまう人もいるものです。しかしこの力は個人差があり、若いときから自分でいろいろなことに挑戦し、苦労をしてきているような人ほどそうした力を持っています。新しいことを身につける苦労をした経験の差だと言えます。自分で目標を設定し、そこにたどり着くためのステップを自分にあった方法で考えだし、失敗してもその原因を自分で探ることができるような経験をしてきているのです。苦労をして目標にたどり着くと、その経験が次の挑戦に活きて働くのです。

芸術やスポーツの世界の一流の人はそうした新しいことを自分で身につけるやり方を、つかんでいると言えるでしょう。(もちろん、そのことを自覚はしていないかもしれませんし、他人に教えることができることとは別なことですが。

教えてもらわなくても、自分で身につけることが出来る人もいますが、大人になってもなかなかそうしたことが苦手の人も多くいます。そうした人には、自主的に学習できる場でそうした経験を積むことが必要なわけです。