学習者のペースで考えさせたり、調べさせたり、実験させたりすると、時間がかかるという指導者がいる。だから講義方式にするのだという。そうすれば、予定の時間で学習を終わらせられるというわけである。たしかに、話で終わらせれば、教師の思ったとおりの時間で終わらせることができる。しかし、その時間に学習者がどれだけ自分の脳を働かせたかを、考えてみなければならない。
話を聞いているときには「わかった」と思っても、後になって自分で考えようと思っても考えられない、ということがよくある。それは、わかったと思っただけで、本当にはわかっていなかったのである。
本当にわかるというのは、話をした人が感じたり考えたりしたことを、自分も同じように感じ、また考えることができるということである。つまり、聞き手が話し手と同様に頭脳を働かせることができた場合に、それを本当にわかったというのである。話し手と同様に頭脳を働かせることができるためには、聞き手が話し手と同じか同じ程度の経験や論理力思考力が必要である。
「教えれば(説明すれば、あるいはやって見せれば)できる」と考えているとすれば、それは間違いである。脳は、行動したことを記憶するのである。教えるというのは、教える側の行動である。教える人が、自分の経験を材料にして、自分の論理で話を展開する。教えているものの脳は、活発に活動している。自分の経験を整理し、追体験していることになりその行動を成立させるための神経回路(以下、行動回路)に電気信号が行き交う。その結果、その行動回路はさらに確実なものになる。
それに対して、話を聞いているだけ、見ているだけで、自分のペースで考えず、やってみることもしない学習者の脳には、たいした刺激がいかないので、期待するような行動回路はできていかない。
話を聞いてそれで行動ができるようになったという人がいるかもしれないが、その場合はもう既にそのことを成立させる要素となる行動回路ができており、それを関連づける視点が与えられたのでできるようになったということなのである。
(参照:13 試行錯誤の脳行動学的意味)
話の内容や論理を理解するのに必要な経験や、論理を把握する力のない聞き手には、いくら聞いていてもよくわからない。わからないからおもしろくない、だから聞かない、というようなことになる。そういうことでは、いくら予定の時間に学習が終わったといっても、その時間は学習者にとっては無駄であったということになる。
時間が少ないからこそ、形だけでなく、学習者の脳を思い切り働かせて、本質的な能力と行動姿勢を育てることを考えなければならない。