32 失敗2題

「失敗」のとらえかた

 日本人は、失敗を「挫折」と考えてしまいがちだが、失敗こそ「成功の道につながるプロセス」である。
 なぜ失敗をしたかを分析すれば、成功につながる視点が見えてくる。
 育てるべきは、失敗を分析する姿勢と、分析する視点である。
 何かを考えついてやってみる。うまくいかなかった。
 それを失敗と見るのではなく、だめな方法が明らかになったと見る。
 考える方向が少し狭まったと見る。
 そういう思考の仕方が大事である。

失敗の検証 

 失敗を生み出した人間行動の分析をしなければ、失敗の克服にはつながらない。
 「不注意」「知識がなかった」「経験が不足していた」というような分析では、失敗の克服にはつながらない。それでは、ほとんどの失敗の原因は、同じになってしまうだろう。 
 なぜ「その不注意」が生まれたのか。不注意を生み出す条件はなかったか。「経験」が生み出すどんな能力が不足していたのか、それを分析しなければならない。

 どのような観察・判断が不足していたか。
 どのような技術行動が不足していたか。
 当事者の勤務条件はどうだったのか。
 見極めを難しくする場の条件はなかったか。
 行動を確認する習慣,システムは不十分ではなかったか。
 
 言葉で知っているだけでは、行動できない。
 「気をつけよう」「失敗しないようにしよう」と思っただけでは、できるようにはならない。
 脳は、行動しただけのことができるようになるのである。
 失敗を克服するための行動のあり方を明らかにして、行動感覚となるまでの行動力として育てる方策を生み出さなければならない。

カテゴリー: 仕事, 教育・学習

31 集中と繰り返し

生卵が割れるようになるのは、平均11歳

 ある教育研究所の調査結果では、生卵を割れるようになるのは平均年齢11歳であるという。11歳といえば、5年生か6年生である。小学校の教師修学旅行の説明会で、保護者から「割れないので朝ご飯に生卵は出さないでほしい」という要望が出ることは珍しくないという。
 『噂の東京マガジン』というTV番組に、街中に出て、このぐらいはできてほしいなと思うことを周囲の人にやってもらうという「やってトライ」というコーナーがあるが、ここで卵割が取り上げられたことがある。トライした50人の子どもたちのうち、ちゃんと割れた子は21人、約4割だった。
 生卵を割るというような簡単なことが、どうしてそんなに大きくなるまでできないのかと思われるかもしれないが、これが意外にも多く、先日も、高校生になっても卵割りができなかったという女性のブログを読んだ。「割れても『ぐしゃっ』という割れ方で、手が卵まみれになり、手元にふきんがないと割れないような状態だった」と彼女は書いていた。

卵割りは1日でできる

 生卵を割るという行動は、卵を茶碗のふちなどのような硬いものに軽くあてて殻にひびを入らせ、ひびのところで殻を両側に開き中身を出す、という単純な行動である。我が家の子どもたちは、娘は4歳、息子は6歳で割れるようになった。それも1日で。5年生6年生でもできない子もいるのに、どうして1日で、と思うかもしれないが、1日だからできるのである。
 「なのに」ではなく「だから」である。卵割りは、集中して5個ぐらい続けて割れば、たいていの子どもができるようになる。多くてもせいぜい10個である。

練習のプロセス

 まず、できる人が卵割を1,2回ゆっくりやって見せ、卵割り行動を構成している要素をつかませる。硬いふちのようなものでたたき殻にひびを入れること、ひびのところを両側に広げること、そしてそれぞれのときの手の使い方などである。
練習をさせるときは、それぞれの行動の感覚をつかませることを心がける。

 ・ひびを入らせるときの強すぎず弱すぎずの力の強さの加減 
 ・たたいた瞬間に止めるような力の入れ方の感覚
 ・十分なひびが入ったときのグシャッという抵抗感の変化の感覚

 無論最初からうまくいくことはあまりない。失敗を修正していくことでできるようになっていくのである。うまく短時間で修正し、成功に近づけるには、失敗した記憶が残っているうちに、修正行動をさせる必要がある。たたく力が弱くひびが入らなかったら「もう少し強くたたいてごらん」、逆に強すぎたら「もう少し弱く」、ひびが入ったときの感じを判断できない子には、割る前の卵を軽くふちに当てさせそのときの抵抗感を感じさせておき、たたいたときその感じが変わることを観察させる。「今のグシャッという感じわかった?」というように。
 成功した場合は、その行動の感覚が記憶に残っているうちに、繰り返させる。確実にできるようになるまで繰り返させる。
 文章で書くと大変な行動のようであるが、前述したように、多くても10個もやってみればできるようになる。いくら割ってもいいよ、と20個ぐらい用意して気を楽にさせてやれば、効果も上がる。

1週間に1個では、割れるようにならない

 生卵が割れない子どもたちは、卵割りをする機会はどれほどあったのか。ご飯に生卵をかけて食べるときだけ、それも自分の分だけというようなことではなかったか。
 卵かけご飯を毎日食べる場合でも、1日1個である。小さな子どもが、自分の失敗行動の問題点を自覚していて、翌日にその行動を修正するというようなことは、なかなか難しい。1週間に1個、1ヶ月に1個ではなおさらである。5年たっても、卵割りはできるようになるとは言えない。
 
集中と繰り返し ― 技術を早く確実に身につけるためのポイント

 この話、何も生卵に限ったことではない。どんな行動,技術の習得についても言えることである。
 人間の脳は学習型の脳である。行動したときに働いた神経回路の興奮が残る。それが行動の記憶であり、それを蓄積していくことで様々なことができていくようになっている。脳は、成功行動だけ区別して記憶してくれるわけではない。初めての行動のときは、たいていは行動がうまくいかないので、回路にその記憶が残る。その失敗回路の記憶を材料として行動を修正していくことで、できるようになっていくのである。
 うまく短時間で失敗を修正し、成功に近づけるには、失敗した記憶が残っているうちに、修正行動をさせる必要がある。そのことを忘れたころにやったのでは、意味がない。つまり、練習は集中して行う必要があるということである。
 また、記憶回路は何度も引き出すことで確実になる。その回路を何回も働かせるほど、その回路への信号はスムーズになり、記憶が強固になっていく。だから、行動が成功したら、その記憶(行動感覚)が残っているうちに、何度もその行動を繰り返し練習し、成功回路を強固な確実なものとしておく必要がある。繰り返し練習の意味はそこにある。

カテゴリー: 生活, 脳の働き方

30 冷静に対応する

「冷静に」「落ち着いて」と言われても・・・

 今年の5,6月、「冷静に」「落ち着いて」の言葉が飛び交った。国内で初めて新型インフルエンザの感染者が確認された5月1日以降、舛添厚労相は連日のように早朝や深夜に緊急記者会見を開き、対応の仕方について語った。「症状があった場合はいきなり病院には行かず、保健所や相談センターに電話するように。落ち着いて対応してほしい」と繰り返した。会見は各局のTVニュースで、何回も放映された。
 横浜市の高校生が直接病院を受診したために感染拡大の危険性が心配された際、長時間電話が通じなかった横浜市に対し、「危機管理の体をなしていない」と厳しく批判した舛添大臣に、中田横浜市長が「国民に落ち着くように呼び掛けているが、大臣自身こそ落ち着いた方がいい」と反撃する一幕もあった。 
 もう一つ、やはり新型インフルエンザ関連。政府が2億8783万円をかけて作った、新型インフルエンザへの対応のしかたについてのテレビCM。麻生首相が「政府や自治体が発表する情報に注意し冷静な対応をお願いします」と呼びかけたもので、5月19日から6月1日まで毎日全国に放送された。
 そしてまた8月、静岡での震度6地震発生に際しての県知事が県民に呼びかけた言葉、これも「落ち着いて」であった。

「冷静に対応する」とはどういうことか

政府が繰り返し要請した新型インフルエンザへの「冷静な対応」に対しては、「『冷静に』と言われてもどうしてよいかわからない。具体的にはどうすることなのか」と、TVの報道番組の司会者が対策の専門家に質問していた。「情報をとって、しっかり準備するということです」と専門家は答えた。しっかり準備してあれば、冷静に対応できるというのだ。
しかし、準備というのは何か。薬やマスクというものの準備だけではないはずだ。情報の取り方も含めて、そうしたときの行動のしかたを身につけておくということであろう。
 「冷静」の反対は「動揺」「あわてる」、それが極端になると「パニック」になる。「あわてる」「パニック」は、どうしたらおこるか。それを解析してみると「あわてない、パニックにならない」つまり「冷静に対応する」という行動のしかたが生み出せる。

対応の仕方を行動力として身につけておくこと

 脳は日々情報を取り、それを分類整理して脳の記憶回路にネットワークをつくって管理している。あわ
てる、パニックになるというのは、それができなくなるということだ。急激に、それまでにない、自分の行動のしかたや生活(時には命)を脅かすような情報が入ると、危険安全への対応をつかさどる扁桃体が働いて脳内にアドレナリンが過剰分泌され、必要ない神経回路まで働いてしまう。脳が混乱し、必要な情報を整理することができなくなるということである。
 それに対し、自分がつぎにとるべき行動が予測できる、そしてその行動が、自分にとっては手馴れたものであること、もしくはそう困難なことではないことだと認識できれば、アドレナリンは過剰に分泌されず、脳の回路は平常どおりに働くことができる。
 ここで大事なのは、この対応のしかたは単なる知識ではないということだ。行動力として身につけておくということだ。危機的状況に関する情報をとる習慣をつけること、その情報を整理していつでも取り出せるようにしておくこと、そしてことが起こった場合の行動のしかたをシミュレーションし、自分のものとしておくところまでやっておけば、言うことはない。

カテゴリー: 生活, 脳の働き方

29 失敗の修正,失敗の克服によって成長する

 「負けが金メダルにつながった。」
レスリングの吉田沙保里選手が、北京オリンピック金メダル獲得後のインタビューに応えた言葉である。
2008年1月のワールドカップ団体戦で、アメリカ選手に負け、連勝記録(119)がストップした。
 タックルを返されて負けたのである。タックルをするときの自分の癖を読まれていた。そこからタックルの修正をしたという。
 「タックルにとびこみ、片足をとった後、横に回りこむようにした。」
 「負けていなければ、自分の弱点に気がつかなかった。」
 失敗を修正することによって、より高度な技術(わざ)を生み出したのである。

 トリノ五輪で金メダルを獲得したフィギュアスケートの荒川静香選手も、失敗を修正した経験が大事であったと語っている。
 「あのつらい時期があったから、今の私がある。 同じようなことがあったら、その時間を大事にしたい。」

 また、女子レスリングの浜口京子選手は、アテネオリンピックで銅メダルをとった後の会見で、次のように語っている。「もっときれいに輝くメダルが欲しかったんですが、私の人生の中で金メダル以上の経験をさせてもらいました」
 その経験とは、敗退から3位決定戦までの短い時間の中で気持ちの切り替えをしたこと。周りも本人も金メダルを確実視してきた、そういう状況下での準決勝敗戦。3位決定戦に勝つために、敗戦による精神的ショックを打ち払い、闘争心を奮い起こした。そういう場におかれて、チャレンジして乗り越えたこと。その経験が、浜口選手をさらにつぎの目標へ向かう姿勢を生み出したのである。

 失敗を失敗のままに終らせておいてはいけない。「いやな思い出」のままに終らせてはいけない。
 失敗したことがいやな思い出になり、そのことを避けるようになってはいけない。立ち直れないような失敗(挫折)をさせてはいけない。
 失敗を克服して、失敗から学んだことが多かった、良かった、自分のためになったという経験をさせなければいけない。失敗したことを克服したい、と思うように育てる。 失敗の克服が、よい思い出(充実感・達成感=快)になるように支援することが、指導する立場の者たちの目標だ。

カテゴリー: スポーツ

28 成長する組織の条件 

できることだけやっていたのでは、成長しない

 始めてのことをするときは、たいていは失敗する。
 人間の脳は、失敗を修正することによって、目標の行動を成立させるための神経回路を作り上げていくのである。だいたい、初めての行動を行うときには、その行動を成立するための回路は出来上がっていない。人間の脳は、行動したときに発生した神経回路の興奮を記憶するという形で行動のしかたを蓄積していくものだからである。
 初めての行動をするときは、その行動を成立させるのに近いものを組み合わせて、脳は対処する。それに不足があれば失敗する。行動表現するための身体の各部と神経回路との信号のやりとりが、目標行動が要求するより遅い場合も失敗する。
 人は、何度もやり直してその失敗を修正していく。そうして、だんだん目標の行動を成立させるための回路を作っていくのである。繰り返すことにより信号の伝達スピードも速くなり、やがて目標の行動ができるようになる。
 人間は失敗を修正することによって成長していくのである。できることだけやっていたのでは、能力はそれ以上に伸びない。

失敗を許して、チャンスを与える

組織の力は、一人ひとりの力の総合である。失敗させたら組織にとってマイナスと考え、失敗させないようにしていたのでは、そのものの力は伸びない。一人ひとりの力が伸びていかなければ、組織としての力も伸びていかない。
 つまり、一人ひとりに少し背伸びをさせて、仕事に挑戦させることが大事だということである。そのものの頭をフル回転させて、仕事をさせる。そして、やったこととその結果を自覚させることが、成長させるためのポイントである。
 失敗したら、失敗の原因を分析させる。その対策を考えさせる。そしてもう一度チャンスを与える。それが上に立つもの、指導する立場にあるものの、あるべき行動の姿勢だろう。

そして、もうひとつやること

 それは、部下の失敗のカバー。
 上に立つもの、指導する立場にあるものは、失敗をカバーする力、失敗に対処する力を持っていなければならない。そうした姿勢と力を持った組織でなければ、成長していかない。

カテゴリー: 仕事, 脳の働き方

27 「なのに」と「だから」 その2

 おとなしい兄ときかん気の弟(あるいはその逆)。 上の子は食べ物の好き嫌いがあるが、下の子にはない(あるいはその逆)。「兄弟なのに」どうしてこう性格が違うのか。よく聞く話であるが、これも「兄弟なのに」ではなく、「兄弟だから」と考えるべきだろう。

 兄弟だということは、一人ずつ育つのとは絶対的に異なる条件がある。兄には年下の弟がおり、弟には年上の兄がいるということである。兄は、弟が生まれるまでは一人で育てられる。親に自分ひとりが世話されるという経験をしているのである。そこに弟が生まれる。親が、自分以外のものの世話をし、愛情をかける。自分と親の関係の中に入り込んできた新しいものとしての「弟」の存在を意識して育つ。また、新しい存在である「弟」に対して働きかけたり、「弟」から自分への働きかけに対応していく中で育っていく。
 
一方、弟の方は、始めから年上の兄がいる状況で、兄の行動を見て育つ。兄が自分に対する行動(世話であったり、攻撃であったり)を受けて育っていくのである。こうした経験がそれぞれの脳を育てていくのである。

 親の接し方も一人目の子と、二人目の子は違う。親として始めての経験であるひとり目の子育て、その経験を踏まえての二人目の子育て。病気になったとき、けがをしたとき、隣の子とケンカをしたとき、始めてのときと、経験を踏んできたときとでは対応が違うのである。
 こう考えると、違うのが当たり前で、同じになるほうが不思議というものである。

 「何回もやっているのに」「初めてなのに」「一番若いのに」「女の子(あるいは男の子)なのに」・・・・・・・・・というように、いままで「○○なのに」と考えてきたことは、実は「○○だから」であるということはかなりあるのではないか。逆に、「××だから」は実は「××なのに」である、ということもあるだろう。
 人の行動をみるとき、先入観で判断せずに、脳にどのような経験をさせてきたかという視点で、その人の行動を成立させてきた背景をとらえてみることが大切だということだ。そうすると、その人を理解するための視界が開けてくる。

カテゴリー: 生活

26 「なのに」と「だから」

 脳の働きに目をつけて人間の行動をみるようになると、それまでの概念を改めなければならない思うことがしばしば起こる。従来は「○○なのに」と考えてきたことが、そうではなくて、実は「○○だから」だったのだと、まったく逆にとらえなくてはならなかったことに気がつくことがある。

 たとえば、子どもが暗がりを怖がって、一人では行かれないというようなことがある。そんなとき、周りのものは、つぎのような対応をすることが多い。
   Mちゃん、お二階が怖いなんておかしいよ。もう一年生でしょ。
   Kちゃんはまだ3歳なのに、一人で行かれるよ。
   Mちゃんはお兄ちゃんなんだから、一人で行かなくちゃだめじゃないの。
 
 ところがこれは大間違い。実はKちゃんは「まだ3歳だから」暗いところに行かれるのである。怖いもののイメージができていないからである。「怖い」という感情が育っていないのである。ところが小学校一年生のMちゃんには、大人の話を聞いたり、本を読んだり、TV番組を見たりする中で、脳の中に怖いもののイメージが出来上がっている。その脳が働いて、電気のついていない薄暗い2階の部屋と、怖いものとを結びつけるのである。

 つまり1年生のMちゃんは、「怖い」という感情をつくるために十分な経験をしたということである。怖がるということは、その子がそれだけ成長したことを示すものなのである。叱るより、この子の脳にはいろいろな情報が入ってきたな、ととらえるべきなのである。第一、叱っても脳の中のイメージが修正されるわけではないから、無意味である。怖がらないようにさせたいのなら、怖がる必要がないという新しいイメージを脳の中につくるために、どういう経験をさせたらよいかを考えた方がよいということである。

カテゴリー: 生活

25 千回の素振りか、あれやこれやの10回か

▼ 指導者によって、教える内容が違う・・・
 指導者によって言うことが違うので困る、どっちが正しいのかわからない、といった話をよく聞く。また、同じ指導者でも言うことがクルクル変わるので困る、という話も聞く。
 表題に揚げた例は剣道の話である。素振りというのは竹刀や木刀を空中で振り下ろす練習で、剣道界では大変重視されている。「振り千」という、千回の素振り練習を意味する用語があるほどである。しかし、その一方で、「あれやこれやと試行錯誤しながらの10回の方が、意味がある」と説くものもいる。古武道家の甲野善紀氏である。この相矛盾する2つの教え、いったいどちらが正しいのか。

▼ 「あれやこれやの10回」の意味
 「あれやこれや」というのは、研究的にやれということである。自分の技の問題点を客観的に見つめて、自覚的に練習せよということである。きちんと正しい振り方もできていないものが、無思考的に振っているのは意味がないばかりか、疲れるだけで練習の意欲を失わせることさえある。自己流に振ってへんな癖がついてしまうこともある。だから、名人達人の振り方と自分の振り方とを比較するなどして、どういう振り方がよいのか研究することが大事だというのである。

▼ 素振り千回で育つもの
 では、「千回」には意味はないのか。「千回」というのは、「練習量が大事」という意味をこめた言葉である。練習の「量」というのは、行動を成立させるためにどのような意味を持っているのだろうか。
 あれやこれやと試行錯誤し、理にかなった構え、身体の動かし方をつかんだとする。しかし、これだと思ったその一回だけでは、その構えやからだの動きは定着しない。脳の中にできた記憶回路の興奮状態も時間がたてば消えてしまう。何回も練習を重ね、脳と身体の各部との間に信号を何回も行き来させることにより、その行動のしかたの記憶回路が確固たるものになるのであり、またその行動を支える身体作りもできていく。練習の量は、行動の成立に非常に大きな意味を持っているということである。  
 「千回」も「あれやこれやの10回」もどちらもシンボル的言葉で、厳密に「千回」「10回」なのかはわからないが、結論を言えば「千回」も「10回」もどちらにも意味がある、どちらも必要ということだ。それぞれ問題にしていることが違うのである。

▼ 指導の意味を読み取る
 要は、場の条件や目的によって、また指導される人の状況・状態によって、学習させる方法、鍛える手段は違ってくるということだ。
だから、指導者の言うことが前に言われたことと違う、矛盾していると感じるときは、その指導が何を問題にしているのかを考えてみることだ。違うように見える(聞こえる)というのは、指導の内容、育てようとしていることが違うからである。

 たとえば、「もっと考えてやれ」と言われたとき、これはまだ、「あれやこれや」と試行錯誤して理にかなった行動のしかたをつかめ、ということなのだ。逆に「考えるな」「無心でやれ」などと言われたとき、これは、もう十分練習して(剣道で言えば千回の素振りをこなしてきて)理にかなった基本的な行動のしかたは身についているのだから、あれこれ考えず、とにかく相手の動きに反応して身体を動かせ、ということだと読み取れる。前に指導されたときの自分と、今の自分の違い、指導されたときのそれぞれの場の状況はどういうものであったか、自分の行動はどうであったかを考えてみると、きっとそうしたことが読み取れるだろう。そして、指導者が、どんな能力を鍛えようとしているのかを、読み取ることができるだろう。
 もうひとつ、指導の矛盾を感じたときにやってみることは、とにかく言われたとおりに素直に行動してみること。やってみて考えることである。やってみてできるようになると、そのことの意味がわかるようになるからである。

▼ 指導者の心構え
 指導者は、学ぶもの(学習者)に対し、そのものの課題と、そこまでのおよその段階、そして直近の学習(練習)の具体的な目標を分かりやすい形で示すのが望ましい。学習(練習)の見通しを示すということである。そうすると効果的な指導を展開することができる。人間の脳は、目標が見えること、頑張ればそこに到達できそうだと感じたとき最も意欲的になる、という性質を持っているからである。
 
参照:11「わかるとできる」ではなく「できるとわかる」
    15 脳が意欲的になる条件

  ****************************************

▼ 宮本武蔵の鍛錬
 宮本武蔵は、練習量が大事と説いている。「千日の鍛」「万日の錬」という言葉で、その重要性を説いている。「朝に鍛、夕に錬」という言い方もしている。彼の時代には竹刀はなく、練習に用いる道具は木刀であった。重い木刀を持っての毎朝、毎夕の鍛錬である。毎日重い木刀を振りつづけていると、その人の身体はどうなるか。筋肉がつき、心肺能力が鍛えられ、木刀を自在に操れるようになる。身体も早く動くようになる。目的はそこにあった。
 しかし彼は、単に練習量だけを問題にしていたのではない。「たち(太刀)の取りようは、大ゆびひとさし(親指人差し指)を浮くる心にもち、たけ高しめずゆるまず、くすし(薬)ゆび小ゆびを締むる心にて持つ也」「足の運びようの事、つま先を少し浮けて、きびす(かかと)を強く踏むべし」というように、理にかなった構え,身体の使い方についても研究を尽くし、客観的な目をもって自分の技をとらえていたということがわかる。

参照:日本武道全集第1巻『五輪書』人物往来社,1966年

カテゴリー: スポーツ

24 併行学習

▼9.11に思うこと
 9月になると多くの人が、アルカイダの攻撃によりツインタワービルなどが破壊されたあの7年前の出来事を思い出すことだろう。夜のニュースを家族全員で見ていた我が家においても、まさにリアルタイムの映像でそれを見てしまったため、いまだに生々しい記憶として残っている。
 映画やディズニーランド,コンピュータ,ゲーム機などで非常に近しい存在の国アメリカ、ニューヨークはそのシンボル的都会だ。そこでの大惨事。子どもたちにとっては、本当にショックだったに違いない。「どうしてこんなことが起こるの」「戦争になるの?」「日本で起きたらどうしよう」「怖いよ」、我が家の子どもたちも不安を訴えた。

 こうした、子どもが一人では考えられないようなことが起きたとき、大人がどう対応するか、それは大変重要なことである。冷静に情報をしっかりとることを、教えなくてはならないと感じた。それからの数日間、夫と私は、なるべく子どもたちと一緒に、過度にセンセーショナルに報道する番組や、憶測をかたる番組を避け、しっかりと調査して冷静に客観的に伝えようとする番組を選んで見ることを心がけた。  新聞にもどう書いてあるかも調べた。そして、そこから感じたことを話し合うようにした。
 そして事件の背景が見えてきたとき、それをどう判断すべきか、こういうことが起こらないようにするためにはどうしたらいいのか、そしてわれわれは何をすべきか、と話し合うようにしていった。

▼ いつもどおりの授業をした学校
 中学生の息子から、学校はこの大事件に関して何の行動も見せなかったことを聞いて、私は驚いた。わずかに、事件の翌日息子のクラスの国語を教えていた若い男性教師が授業の開始時に簡単に触れたのみであったという。朝学習の時間,給食の時間,ロングホームルーム、朝の全校集会、社会科の授業、総合的学習の時間、いくらでも時間はあったのに、担任も社会科の教師も、校長も一言も触れなかったというのである。学校全体で取り組んでいた総合的学習のテーマの一つが「国際理解」であったにもかかわらずである。
 
 月末に行われた息子のクラスの保護者会で、「子どもが大変ショックを受けたこのような問題に対して、学校,教師は、どう対応すべきだと考えているか」と、私は担任の教師(理科)にたずねた。「何もしません」「正しい答えがわかっていないことは、教えられません」と彼は答えた。

 「答えを教えてほしいと言っているのでなく、まず、子どもたちの動揺をどう受け止めてやるかということ。そして、こうした問題をどのようにとらえていくか、考えていくか、そういう姿勢を育てるということ・それは大事なことではないのか」重ねてたずねたが、彼は、「数学や理科の時間を削ってやるようなことではないでしょう」と答え、「今日はそういう問題を話すために集まってもらったのではないのだから、その話はもうやめてください」と怒ったように言った。
 結局、それ以後も息子の学年では、この事件をどう考えるかについては何一つ触れられずに終わった。
(ちなみに、総合的学習「国際理解」は世界のジャガイモ料理を材料にして展開された。)

 この教師、この学校が取った行動、「社会的に重要な意味がある問題や、子どもが関心を持っている問題を取り上げない」ということと、「正しい答えが出ていないことは教えない」という、ことである。このことは、脳にとってどのような結果をもたらすのか、それを考えてみたい。

▼ 併行学習
   ~行動の内容とともに、行動のしかたを併行して学習すること
 脳は行動したことを、行動したように学習していく、というのが脳の学習のしかたの原則である。
 
 つまり、教師が説明することを聞き、黒板に書かれたことを書き写す、それを覚える、という学習をし続けると、学習した内容と同時に、そのときの「教えられることを受け取って覚える」という行動のしかたも身につくということである。
 自分で考えて行動するということなしに、指示されたことを行動するという行動を積み重ねれば、「自分で考えず」「指示されたことを行動する」という行動のしかたが身につくということである。
 
 逆に、ものごとを自分(たち)で調べ、得られた情報をもとに自分(たち)で考え、(仲間と)話し合い、自分(たち)なりの見解を出す。新たな情報が入ればそれまでの情報と合わせて検討し、必要があればそれまでの見解を修正する・・・というように学習活動を積み重ねれば、そうした行動のしかたが身についていくのである。

▼ 「答えを教える」教育は、受身の姿勢を育ててしまう
 脳の学習の原則から考えると、「正しい答えを教える」という学習は、同時に学習者に「答えは教わるものだ」という考え方や「教えてもらう」のを待つ姿勢を育てていくことになる。
 
 しかし、実を言えば、世の中には、答えがない問題、そう簡単に答えが出せないことの方が多い。また「答え」があっても、一つとは限らない。ある場合にはよくても、別の場合にはあてはまらないということもしばしば起こる。今は正しいと考えられていることでも、新しい事実が明らかになれば、間違いだったということも出てくる。答えが決まっているのは数学や文字のように、約束を決めその範囲でものごとの関係を整理するという種類のもので、世の中のことは、「答え」を人から教えてもらうというような姿勢では立ち行かないことばかりなのである。
 
 したがって、子どもたちには、答えを教えるのではなく、答えの出し方を捉えさせなければならない。状況状態を観察する力、観察した結果を分析する力、わかったこと,わからないことを整理し、その段階で自分なりの行動のしかたを考える力、それを実行に移す力、また、実行してよい結果が出なければ、それを見直して修正する力、そうした力を育てることが大事なのである。

▼ 周りのことに目を向けさせないでいると、「無関心」を育ててしまう
 「正しい答え」が出ていないうちは「教えない」という考え方、これにはどんな問題があるか。
 9.11のような問題に限らず、世の中の多くのことは、先に述べたようにそう簡単には答えは出ない。ということは、誰かが答えを出してくれるまで考えない、避けて通るということになる。そうすると、社会的な問題,身近な問題、重大な問題でも、難しい問題は自分では考えない、避けて通るという行動のしかたが身につくことになる。
 
 「そんなことを考えるより、公式の一つも覚えろ」 そういう学習を積み重ねていくと、社会の問題を見ようとしない、他人のことに無関心な自己中心的な人間を育ててしまうことにつながるということが、容易に予測される。
  
 息子の担任の考え方には、子どもたちの育て方の上で、重大な問題があったのである。それに気づいていながら、教師の剣幕に驚いて引き下がってしまった自分が、いまさらながら情けなく口惜しい。

カテゴリー: 教育・学習, 脳の働き方

23 いじめについて

●百人百様の意見
 いじめ行動がなぜ起こるのか。
 勉強や受験のストレスだという主張がある。勉強についていけないから面白くない。その憂さ晴らしにやるという意見もある。だから、もっと学習指導に力を入れればよい、と言う。充実感がない、集中できるものがない、その心の空白を埋めるためにいじめる、という主張もある。協力して何かに向かうことがないからだという人もいる。だから、部活動などに力を入れ指導せよ、などと言う。
 人の心を考える経験がないからだという意見もある。だから、福祉施設などでボランティア活動をさせよと言う。家庭教育がなっていないから、愛情を持って育てられていないからいじめる、いじめられたとき親に相談できないのだ、などという主張もある。また、いじめは本能だとする説もある。この説を採るものは、「いじめはあるものだ」という前提に立っていじめへの対応をしなくてはならないとする。
 百人いれば百様の意見が出てきて、対応策はなかなかまとまらない。確かに、いじめ行動が生まれる状況はさまざまである。しかし、脳の働き方という視点からいじめ行動をとらえてみると、視界が開けるように思う。いじめ行動が生まれるメカニズムには、共通した脳の働き方を見ることができる。そこから、いじめ行動を起こさない子どもたちの育て方を考える大きな鍵となるように思う。

●「いじめ行動」が生まれるメカニズム
 いじめ行動は、人間の快・不快という感情と関係して生まれる。人間の脳は、行動のまとまりとしての「いじめ」を本能としてもっているわけではない。しかし、自分にとって快である(心地よい)方向に向かって活動し、不快な(心地よくない)ものは避けるという働き方を持つ。この快・不快を感じる脳の働きが、いじめ行動を生み出すもとになっているのである。
 いじめを生み出す状況にさまざまな違いはあっても、そこに共通するのは対象に対する「ウザイ」「キモイ」という言葉で表現される「不快感」である。その不快感は、必ずしもいじめの対象が原因していない「受験や成績からのストレス」「仲間はずれという不快感から逃げる感情」もからんでいることが多いが、ともかくそれらの不快な感情を解消するために、脳は行動を起こすのである。そして「相手をいじめることによって得る快感」「仲間である安心感」を得るのである。
 快・不快を感じ、快の方向に向かって行動しようとさせるのは、生命の維持機能を担当する脳幹に属する扁桃体の働きによるもので、心地よいものが自分にとって安全であるとする「生命を守るための本能的な働き」である。例えば、人間は生まれたばかりのときは甘いものしかおいしいと感じない。赤ん坊にとっては甘い母乳が一番安全。「甘い=安全」であるから、「甘い」をおいしい「=快」と感じるようになっている。苦いもの辛いものは危険なものである可能性があるので、不快と感じる。だから、赤ん坊に甘いもの以外の味の物を与えても危険なものとして舌で押し出してしまう。
 つまり、自分にとって快でないもの(不快なもの)を排除するという行動は脳の最も基本的な活動なのである。自分の力を示すことで快となる行動、また不快なことを避けたり紛らわしたりするための表現である「いじめ行動」は、脳の本能的な働きを土台とした行動だということである。「いじめはどこにでも発生する」「いつの時代でもある」理由はそこにある。

● 行動のしかたで脳の働き方が育つ
 いじめは脳の本能的な働き方から起こる。しかし、現実には多くのいじめをしない人間がいる。人間の脳の働き方は、本能だけで決まるものでなく「育つ=変化する」ものだからである。人間の行動は、「快」「不快」という人間の本能的感覚に左右されるが、その人間にとって、何が「快」で何が「不快」であるかは、経験により変化していくのである。前述の味覚の例で言うと、大人は塩味も辛みも苦みも「うまいもの」として味わうことができる。成長の過程で、心地よい環境のもと信頼できるものから与えられていくうちに、脳の中に辛いもの、苦いものもだんだん美味しい(快)と感じる味覚の回路ができていくからである。
 脳が作り上げるのはもちろん味覚ばかりでない。経験したときの記憶を蓄積して、さまざまな行動と感情のネットワーク回路をつくりあげていく。先生にほめられたのがきっかけで絵を描くのが好きになったり、人前で失敗して以来話すのが苦手になったり、誰しもそれを実感する経験をもっているだろう。つまり人間は、行動の経験のしかたの積み重ね方によって、同じことを「快」と感じるようになったり「不快」と感じるようになったりする。行動をした状況や、その結果によって変わってくるのである。いじめ行動をおこすかどうかは、育て方(=行動の経験のさせかた)が大いに関わってくるということである。
 したがって、いじめ行動の対策は、脳の本能的働きかたと、行動経験からつくられる脳のネットワーク回路、その両面の視点を持って考えていく必要がある。

●「助け合うことの快」を体験させる
 
どうしたらいじめをやめさせることができるか。
 いじめをしている子どもたちの脳は、いじめをすることで「快」の状態になる。脳は、同じ行動を積み重ね、同じ回路を何回も使うほど、その回路の働きは強固になっていく。従って、いじめを封じるには、まずこの回路を使わない状態にしなくてはならない。しかし、ただ使わないというだけでは「いじめない脳」はできていかない。回路は休んでいるだけで、環境が整えばその回路は再び働くからである。
 「いじめない脳」にするということは、「いじめ」で快になる状態を、「いじめない」がより快であるようにするということである。脳には快と思う方向に働く自己保存の原則があるからである。脳の働き方から考えると、「いじめない」が快になるには、お説教を聞かせたり「いじめはいけない」というメッセージを読ませたりという受動的な行動より、「いじめないことにより、快を感じる行動経験」をさせる、それを積み重ねるということの方がはるかに効果的である。脳のネットワーク回路は、脳を複雑に活発に活動させるほど、そして感情が絡むほどしっかりできていくからである。
 「いじめない」というのは、具体的には助けるという行動、励ます、手伝うという行動だ。その行動の結果、またはその行動のプロセスが「快」をもたらすような、そういう行動の場を作って、その行動を経験させるということが必要なのである。
 もちろん、それはそう簡単なことではない。みんながやる気になるテーマ選び、そしてグループとして成立させるための手助けが必要となる。グループを作ればすぐ仲間になれる、グループワークができるというわけではないからだ。相手に伝わるように意見を言うこと、相手の言い分を聞くこと、意見をまとめること、仕事の分担、リーダーシップのとり方、協力のしかた、それらを育てるための、グループの状況に応じた適切な指導が鍵となる。

カテゴリー: 教育・学習, 脳の働き方


:: カテゴリー
  • 教育・学習 (14)
  • 仕事 (5)
  • 生活 (5)
  • 脳の働き方 (13)
  • スポーツ (4)