11 「頭を良くする」ということはどういうことか

 「頭を良くする」ということは、脳の「分類-組み合わせ」の能力をみがくということである。脳は、行動経験したことを記憶していくというのがその基本のシステムである。そして、その記憶を分類し関係づけるということをしている。経験の記憶は、経験しただけある。それがどんどん分類整理されつながっていけば、脳の働きは爆発的によくなっていくと、脳学者は言う。つまり、「頭を良くする」というのは、脳に「分類-組み合わせ」型の働きをさせるようにするということである。
 しかし、これには条件がある。それは、脳本来の働き方をさまたげない、もっといえばそれを助ける行動のしかた・学習のしかたをするということである。「分類-組み合わせ」型の行動をすればもっと効果的だということである。学習する内容を自身で調べ、視点を立てて分類し、整理するというような学習をするということである。教科書を暗記したり、教師の話をただおとなしく聞いたり、ということではないということである。

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9 グループ学習の脳行動学的意味

 脳の学習の原則は、「行動をしたことを学習する」ということ。 行動したときに起きた「脳の神経細胞間の刺激の連絡関係の状態」が残ったものが記憶である。その記憶が蓄積され、関連づけられ、組み合わせられていくことによって、人間は様々なことが理解できるようになるし、新しい行動を生み出していくことができる。そうした脳の学習のしかたと働き方に対して、グループ学習はどのような意味をもっているのだろうか。

●主体的活動が主体的姿勢を育てる
 グループ学習の一斉学習との最も大きな違いは、学習活動を学習者が主体的に進めるということである。主体的な行動を積み重ねることによって、主体的な行動姿勢が育っていく。活動がうまくいった場合とそうでない場合とでは違いがあるが、それでも一斉学習に比較すれば格段の差である。
 一斉学習ではその展開の条件から、教師が主導することが多く受動的な学習活動が多くなる。受動的な行動を続ければ、脳は受動的な行動のしかたを学び続けることになる。小学校から大学まで講義中心の一斉学習方式で育てられてきた日本人が、主体的な行動力が不足している理由はここにある。

●脳の働き方が多様である 
 脳は、他への働きかけが多いほど活性化し、複雑な働き方をするほど発達する。
 多人数の一斉学習では、多くの場合20%程度(30~40人クラスなら6~8人)の反応で授業が進められていく。残りの学習者が主体的に活動せず、教師の話をただ聞いているだけでも授業は進んでいき、その場合の学習者の脳の働き方は非常に単調でしかも少ない。
 一方、グループ学習は生徒相互間の共同関係を意図した学習であるから、1つの課題に生徒たち自身が共同して取り組むという形がとられる。調査や実験をして,その結果をまとめ、表現する、といった多様で複雑な学習活動になり、グループが少人数であるほど各自が行う行動の種類と機会とが多くなる。

●共同することで脳が育つ-分類し総合する力,人間関係力
 一つの課題を共同して行うには、分担,総合,協力といった活動が必要になる。分担し総合する過程では、全体をとらえる行動、要素に分ける行動、それらの関係を整理する行動などが行われる。これらはものごとを構造的に見るという行動であるが、これにより、脳はものごとを構造的にとらえることを経験する。
 また、具体的に行動実施するためには、コミュニケーションが欠かせない。それは言葉だけのコミュニケーションではなく、自分や相手の行動とともにあり、行動を成立させるためのコミュニケーション行動である。どのように共同するか、分担するか。それぞれが調べたことをどうまとめるか。自分の考えを相手にわかりやすく伝える、相手の話を聞き(聞き出し)考えていることを読み取る。意見が異なる場合いはそれを調整することも必要になる。互いに仲間の発言や行動を観察し、意図するところを読み取り、協力の仕方やそのタイミングを計らなければならない。
 そうした行動の中で学習者は、試行錯誤しながら全体の中での個のありかた、個の総合としての全体のあり方を経験していくことになる。そして、経験したことを、脳は学習する。多人数での一斉学習の場合でもこうした行動がないわけではないが、数人が発言してあとは多数決で決めたり、誰かが代表で実験や発表をし、残りはそれを観察するというような形になったりして、学習者それぞれの行動の量と質はグループ学習に遠く及ばない。

●教え合うことで、理解が深まる― 記憶の再構成,問題意識に位置づいた学習活動 
 グループ学習における「教え合う」という行動が、内容の理解を互いに深めあうという効果があるとして、今注目されている。(「教え合い」を特に意図したグループ学習を「協調学習」という名で呼んでいる。)
「教える」ということは、相手の疑問に応じて、自分のとらえていることを伝え、理解させることである。そのためには、相手がどう考えているのか、何がわからないのか、をつかまなくてはならない。その上で自分がとらえていることや理解の土台になっていることを整理し、相手が理解できるやさしい言葉と論理で説明しなくてはならない。相手の状況によって事例を示したり、具体物を使ったりして説明しなくてはならない。(その過程は、より本質的な理解と具体的なとらえ方が必要であることや、しばしば自分もよくわかっていないということを自覚する場ともなる。)
 説明を受ける側は、教えてもらった内容と自分がとらえている内容とを比較し、抜けている部分違っている部分を修正していく。この過程で、教える側教えられる側、双方の脳の記憶は何度も繰り返し引き出され、関係付けられ、再構成される。それだけ脳の神経回路が働くということである。脳の神経回路は働くほどその働きがアップする。反応しやすくなる。
 また、この「教え合う」という行動は、教師から一方的に与えられるものではなく、自分たちの疑問や問題意識にあわせて行われるということが、脳が働きやすい条件にもなっている。自分たちが行動した結果(実験結果や、調べたこと)や、目の前の具体的な事実や教材を材料として行われるため、記憶情報がネットワーク化(関連づけ)されやすいのである。忘れにくい、確かな記憶になるということである。

●チャレンジする力を育てる
 難しい課題に挑戦できないのはほとんどの場合、失敗に対する恐れのためである。しかし、1人ではできないそうもない気が重くなるようなことも、3人4人と仲間がいれば何とかなるかもと第1歩が踏み出せる。がんばればやれそうだと感じたとき、脳は最も活性化する。グループそのものに脳を活性化する条件が備わっていると言ってもよいかもしれない。
 グループで取り組む場合、失敗しても仲間で痛みを分け合うことができる。もう1回やってみようと励まし合う。なかなかアイディアが出なくて苦しいとき、1人がへこたれても、別の誰かが頑張ってやる。その頑張りを見て自分もやるぞという気になる。チャレンジするエネルギーが出てくる。
 この学習過程がよい、とグループ学習を体験した学習者たちは言う。苦労しても、教えられるのではなく、自分たちの力で掴み取っていくというところに充実感があり、だんだん面白くなっていく。チャレンジすることの面白さ、楽しさをつかめば、脳はそのことを避けることはしなくなる。脳は、本質的に自分にとって好ましい方向に働こうとする。それは生存のための本能だからである。
 チャレンジすることで、チャレンジ精神は育っていく。グループでの課題挑戦は、個々のチャレンジ精神をも高めることになっていく。

●経験の共有,感情の共有
 グループ学習では、学習者たちが同じ経験を共有することになる。その同じ経験を土台に考えることになるので、互いの意図するところが理解しやすい。
 また、単なる経験だけではなく、それに伴う感情を共有する。感情は行動したときに起こる脳の働きの1つである。同じような経験をしていないと、言葉でいくら説明しても本当には理解できない。「グループ学習は楽しい」と学習者は言う。集まってわいわいやるから楽しいという意味ではない。苦労しても、つらい学習であっても、いや、だからこそ楽しいというのである。学習活動を進めていくための苦労や、失敗による挫折感、そして成功の喜び。失敗を克服することができれば、失敗せずにできたときより嬉しい。そのときの苦労や喜びを分かり合える、語り合える仲間がいるということが大きな喜びとなる。

●グループ学習を進めていく力は、グループ学習の中で育てる 
 グループ学習の効果は大変大きい。学習内容を理解するという面は言うまでもなく、社会の中で行動していくための力 (主体的行動力、コミュニケーション力,人間関係力,チャレンジ精神etc.)を磨くという意味からは、まさに不可欠な学習活動のしかたといえよう。
 しかし、グループ学習は最初からなかなかうまくはできない。グループにしさえすればグループ活動が成立する、というわけではないのである。なかなかうまくできないから講義式でやる、その方が早く進む、という指導者がいるが、それは間違いである。進んでいるのは指導者であって学習者ではない。学習者をいかに行動させ、行動のしかたをその脳の中に成立させていくかということが、学習の目標にならなければならない。
 グループ活動がうまくできないからこそ、グループ学習をさせなくてはならない。グループ活動は、グループ学習の中でその行動のしかたを練習し修正していくことによってしか、できるようにならない。目標行動の提示の仕方や教材の作り方の工夫、アドバイスやヒントの出し方、そこに指導者の力が発揮されなくてはならない。

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7 20%の授業

■50年前の授業調査

 昭和25年、国立教育研究所が全国小中学校教育課程調査の一環として授業研究を行った。1時間の授業における教師の活動、生徒の活動を克明に観察し記録をとった。教師がどういう教材を提示し、どういう説明をし、黒板には何を書き、どういう質問をしたか。どういう行動を指示したか。生徒は誰々が手を上げて、そのうち何人がどんなことを言ったか。その答えを教師はどういうふうに整理をしたか。また、教師の指示に対して生徒はどういう行動をとり、教師はそれに対してどう指導したか。そのプロセスをずっと分析していって、学習目標の立てかたや授業の展開のしかた等における問題点を明らかにしていく、という研究をしたのである。

 そうしたことを3~4年続けて、その中でわかってきたことがあった。全国のどの地域の、どのクラスにおいても、50数人の中で観察記録の表に出てくるのは、いつも10人程、つまり20%の生徒に過ぎないということだった。その10人の生徒は先生といろいろコミュニケーションをして反応がわかるが、あとの40人はわからない。
 そこで、今度は残る40人が授業中どうしていたかを聞き取り調査をしたところ、「わかりきったことだから手を上げなかった」という生徒もいないわけではなかったが、そういうのはそう沢山はいない。「先生、何言ってんのかな」と思っているうちにA君が答えてしまった。どういうことだろうと考えているうちに、Bさんが何か言った。「それでいいのかな」と迷っているうちに次へ進んでしまった、というような生徒が相当いる。また、先生が言ったことがわからなくて考えているうちに、そのことが展開してさらに難しくなった。質問したいと思っていたが、そのタイミングを迷っているうちに先生の話はさらに次へ進んでしまったという生徒も少なくない。あれよあれよという間に45分間がすぎてしまった、そういう状態だったというのだ。

 つまり、残りの40人、80%の生徒たちには、学習は成立していなかった。授業の45分間は、生徒たちの脳を働かせるための場になっていなかったということである。それから50年経った今、そうした状況はどれほど解決されているのだろうか。

■最近の授業状況

 最近、小,中,高の18人の教師による計23授業を見る機会があった。公立が大半であるが、若干私立も含まれている。科目はいずれも理科。いずれも積極的に取り組んでいるという教師たちの授業である。昨今問題になっている子どもたちの理科離れ・理科嫌い解決の道を探るという意味からも、深い関心を持って授業を観察した。
 1クラスの人数は22~39人、50年前の4割~6割とかなり少なくなっている。設備や教材も50年前とは大きく変わった。どの教室でもTVモニタや投影画像の見られるスクリーン、コンピュータが設置されており、TV放送、コンピュータを活用したデジタル教材、インターネットが活用できるようになっていた。そうした環境の中で展開された授業はどうであったか。

 23授業のうちの4つの個別授業、5つの実験を中心とした授業を別として、14が一斉授業であった。授業展開の仕方は一斉授業の場合、どれも基本的には50年前と変わっていない。一言で言うなら教師主体の授業。教師が教科書や資料の内容を解説し、生徒がそれを聞く。教師がときどき生徒に質問し、理解度を確かめる。内容の区切り区切りで、何かわからないことはないかと生徒から質問を求める、といったふうである。そのうちの6授業は生徒個々になんらかのワークをさせたが、残りの7つの授業はなかった。ワークを行った6つの授業のうち、そのワークの結果を基にして展開されたものは3つであって、あとの3つは授業展開の途中で練習問題的にごく短時間行われたにすぎなかった。また、個々のワークの内容は、展開のための材料とされることが多く、生徒の疑問について個別に指導がなされたのは1授業にすぎなかった。
 教師と生徒のコミュニケーションが活発に行われていた授業もあったが、よく調べてみると発言したり質問したりしている生徒の数が多いわけではない。同じ生徒が何回も発言していたり、教師が同じ生徒(確実に反応が返ってくる生徒)を何度も指名したりしているという例が多かった。整理すると、それぞれの授業で反応(内容に即したものに限定)した子どもは、各クラス2~6,7人。割合にすると10~20%。これを見た限りでは、50年後の今日でも、生徒ひとりひとり個別に学習が成立していると言うにはほど遠い状況である。( 私が親として12年の間に授業参観してきた40余の授業でも、この状況はほとんど同じようなものだった。)

■脳を働かせる授業へ

 反応数の少なさ以外にも問題があった。一斉授業における生徒たちの主たる学習行動は、教師の話を聞くという受身の行動であるということだ。受身の行動というのは、脳を積極的に働かせない状況を作る。人間の脳は、働かせなくてもよい状態にしておくとすぐ休んでしまう。授業中の居眠りというのはそのひとつの形である。今回観察した中でも、内容が難しくなってきた中学校以上の授業では、何人もの居眠りをしている生徒が見られた。いずれも一斉授業のクラスで、最高は39人中11人であった。
 また、教えられた結果を覚えるという行動では、脳を積極的に働かせないばかりか、21世紀を生きる人間としての必要な能力を身につけられない。自分の未来を切り開かなければならない21世紀の人間としての能力は、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案し、実行できる、そうした力でなければならない。教師の話を聞くというのが中心の授業では、そうした力は育てられない。脳の学習メカニズムは、経験したことを学習するというものだからである。つまり、自分で情報を取り、分析・考察し、発表し提案する、そして実施して修正する、そうした過程を脳に経験させるように授業を設計しなおす必要があるということである。

 「結果を教える教育」から「自分の頭で考える学習」に切り替えて、学力のみならず国際競争力も世界のトップに押し上げたフィンランドの学校教育改革が、そのことを証明しているのではないか。

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6 失敗から学ぶ力を育てる

●なぜチャレンジ精神や創造性が育たないのか
 日本人は、決められたことをきちんとやるのは得意だが、新しいものを創造するのは苦手だといわれる。また、堅実だがチャレンジ精神に乏しいとも言われる。創造する力とチャレンジ精神、転換期にある日本の社会の中で求められているこの二つの能力、日本ではなぜ育ちにくいのか。
 創造する力やチャレンジ精神を持っている人間とそうでない人間とが、生まれながらに決まっているわけではない。創造する力も、チャレンジ精神も、どちらも脳の回路のなせるわざである。赤ん坊から子ども、子どもから大人へと成長する中で、脳を働かせ行動する、その過程で育ってくるものなのである。それが育っていないということは、創造する力を育てるための、そしてチャレンジ精神を育てるための脳の働かせ方が不足しているということ、脳を働かせる環境を作ってきていないということになる。

●失敗は、チャレンジ精神や創造力を生み出すみなもと
 ノーベル化学賞をとった白川秀樹さん、田中耕一さん、賞の対象となった研究のきっかけになったのは、共に研究の失敗からだった。まさに「失敗は成功の母」だったのであるが、白川さんはそのことについて、「ノーベル賞をいただく研究のきっかけになった失敗実験を、よく観察していなかったならば、単なる失敗として葬り去られただろう」と語っている。失敗を再挑戦のスタートと感じ取る心、失敗を観察し分析し、そこから新たなものを生み出す力を育てること、それが重要だということである。
 新しい試みに失敗はつきものである。しかし、失敗は挫折ではない。その失敗の中には、さまざまなデータが満ち溢れている。失敗を失敗のままに終わらせず、それを観察し分析し、つぎへの試みの手がかりを得る。そうした失敗から学び取る力、失敗を材料とし新たな工夫をする力を持つことが、挑戦するエネルギーを生み、その積み重ねが創造力になっていくと言えるだろう。

●「失敗させない教育」が育ててしまったもの
 「失敗は成功の母」という格言は、中国では「失敗是成功之母」、英語では「Failure teaches success」という言い方になっているが、失敗が やがて成功につながるという考え方は多くの国に共通する考えだと言えよう。
 しかし、この格言をどれだけの日本人が実感として受け止めているだろうか。むしろ多くの日本人が失敗から得たものは、挫折感、劣等感だろう。失敗することを恐れ、その失敗に対する他からの評価を恐れる。そのため、新しい試みに挑戦できない、難しいことに挑戦できない、人と違うことができない。そこには、日本の教育のあり方が大いに影響しているように思われる。 
 日本の教育は基本的に「失敗をさせない教育」である。正しい知識や、技術を教える教育である。正しい(その時点での)考え方、やり方を教えてそのとおりやらせる。その結果を試験や実技テストで確認し、評価するというものである。多くの場合、そこで終わる。教えられたとおりの結果が出せなかった、つまり失敗した後は、すべて生徒の責任となる。学習の場において、なぜ失敗したのか、自分の考え方や行動のしかたのどこに問題があったのかを分析し再挑戦する、といったことはまずない。
 そうした教育からは、「失敗=悪い評価」という考え方が育ってしまう。 だから、失敗を招くようなことはできるだけ避ける。結果がわからないようなことには、チャレンジしない。余計な疑問は持たず、横道にそれたり、自分で試行錯誤したりせず、ひたすら教えられたとおりのことを覚え、間違わずにやることに専念する。そして、それが脳の習慣的な働き方になっていく。

●必要なのは、「失敗から学ぶ過程」を経験させること
 「失敗から学ぶ力」、そしてそれを土台とした創造力やチャレンジ精神をどう育てるか。一般に多く行われているのは、白川さんや田中さんのような失敗から学び成功した人の体験談を聞かせるということである。そのことがいかに大切かを話し、「がんばれ」と励ますことである。 しかし、それで実現するのは、生徒に「がんばろうと思わせる」だけである。「思う」ということは「できる」ということとはちがう。失敗から学ぼうと思っただけでは、失敗から学べないのである。
 失敗から学ぶ力をつけるには、「失敗から学ぶ」という行動を成立させる脳の回路を作らなければならない。行動を成立させるための回路は、その 行動をすることによってできていく。その行動をするときに脳が働き、神経回路に信号が伝わることによって、その行動を成立させるための神経回路のネットワークができていく。行動が繰り返されるほど信号の行き来がスムーズになり、しっかりとしたネットワークとして成立する。
 つまり必要なのは、失敗を観察・分析し、失敗を修正することを経験させるいうことである。失敗の原因を探究し、問題点を修正し、少しずつ目標に近づいていく過程の面白さ、そして成功の喜びを経験させる。そして、失敗は自分を成長させる糧になることを実感させる。その実感が、失敗から学ぶ姿勢をつくりチャレンジ精神を育てるのであり、観察・分析・修正の積み重ねが創造力を育てていくのである。

●育てるべきものは何か
 教育ではすべてのことは教えられない。これから先のことは教えられない。であるなら、未知のものにチャレンジし、失敗から学ぶ姿勢と力を持った探究型の脳、柔軟で意欲的な脳を育てることを目標としなければならない。
 最近、日本では学力低下が問題になり、知識重視の方向が出てきているが、本当の意味の学力とは何であるかは、結果としての知識ではなく、脳の働き方を土台にして考えるべきではないか。

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